落ちてしまった35歳。

予想できたところだが、
あることが気になって精神崩壊してしまったのが落ちた原因かも。ちょうど行政法をはじめてた7月、8月ごろだった。80歳ぐらいの近所に住んでいる仏道修行者の人に電話で何回も例の件について相談していた。
その前の冬の間は実は本当に自殺一歩手前まで落ち込みがあった。ウツだったと思う。
理由は内緒。
それから苫米地英人の本を読んだり、リチャードカールソンの本を読んだり、アルボムッレスマサナーラの本にたどり着く。
そこで釈迦の哲学の真髄に触れて立ち直った。

それが8月、9月ごろだったかな。

自分で生老病死についてはっきりとした仏道的な哲学がないと
もはや人として生きることはできないとおもったのだった。
なぜならすべての生き物は死ぬから。
自分も死ぬ。80歳ぐらいでみんな死ぬ。
刻一刻と死んでいっているのが人間や動物、植物。
それが受け入れがたい現実となってすべての人に襲い掛かる。
自分が死ぬ前に、愛するものとも別れが来る。
愛別離苦である。
人生とは苦しみの連続であり、それが当たり前のことなんだとみんな忘れるように仕向けられている。
人生とは生きるとはすばらしいものだという刷り込みが
赤ちゃんの出産シーンと感動の演出だ。
どこかのTV局では毎日のように赤ちゃんの出産のブイをとって
感動を誘うかの演出をしているのである。
しかし、それがそもそもの罠なのだ。

人は生きるためには多くの生き物を殺さなくてはならない。
殺生は絶対にしなければ生きていけない。
鳥を殺して肉を食らう。
豚を殺して肉を食らう。
健康に生きるためには、殺しをしなければならないのだ。

生きることは残酷極まりないことが真実だ。
だから赤ちゃんの出産はその残酷物語の始まりであり
多くの犠牲を産む始まりである。


それに気づいて僕は立ち直ることができた。

生きることが残酷なことであるなら、愛する者の死でさえ
歓迎すべきことであるともいえるからだ。
それが真実である。
そして自分もいつか必ず死ぬのだから、
愛する者の死に対して他人事のように泣いているのはおかしい。
なぜなら明日自分が死ぬともわからないのが現実だから。
すべての者がいずれ死ぬのなら、
当たり前のこととして受け入れるしかない。